世界は元には戻らない

映画「オッペンハイマー」感想

実を言うと、ここ10年のノーラン監督の映画はあまり好きではありませんでした。2012年の「ダークナイト ライジング」のあたりから、語り口や設定の複雑さが過剰になってきたというか、とにかく登場人物たちに感情移入するのが困難な作風になってきていると感じていました。(私見です)

そんな私から見ても今回の「オッペンハイマー」は、久々に映画館で鑑賞できて良かったと思える作品でした。

正直見ていて辛く感じたシーンもいくつかありました。しかし映画そのものはオッペンハイマーという人物について努めて中立な視点で描こうとしていると感じました。

映画「オッペンハイマー」について

映画「オッペンハイマー」は、原爆の父と呼ばれる物理学者ロバート・オッペンハイマーが第二次世界大戦中に原爆を開発するに至った経緯と、その後の顛末を描いた作品です。

監督は「インセプション」や「テネット / TENET」などの独創的なSF映画を数多く制作してきたクリストファー・ノーラン。手がける映画はオリジナル脚本であることが多いノーラン監督ですが、今回のオッペンハイマーは『オッペンハイマー:「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇(原題: American Prometheus)』という書籍を原作としているようです。

映画で描かれる原爆投下について

この映画は北米では2023年7月に公開されましたが、”原爆”という我々日本人にとっては極めてセンシティブな題材を扱っているためか、日本国内での公開は長らく未定の状態でした。

しかも北米での公開後、今作とたまたま同時期に公開された映画「バービー」を掛け合わせたネットミーム”Berbenheimer”がSNSで流行り、さらに映画「バービー」の公式アカウントがそのネットミームを面白がるような反応して炎上、といったことも起こりました。当時日本は原爆投下日や終戦の日を迎えようとしていた時期だったので、タイミング的にも最悪でした。おかげで公開されていないのに、日本国内での今作の印象はどんどん悪い方へ傾いていったように記憶しています。

しかし実際に映画を鑑賞してみると、今作は決して原爆投下を正当化するような映画ではないと感じました。

「広島や長崎の被害の深刻さを直接的に伝えるシーンがない」という指摘もありますが、なぜノーランはそこを描かなかったのか、映画批評家の前田有一氏が自身のレビューの中で鋭い指摘をしているので、ぜひ読んでみることをお薦めします。

(※ここから先は、映画のネタバレが少し含まれます)

オッペンハイマーの人物像

天才と評される人物たちには「自身の専門分野についてはひたすらに没頭する一方で、それ以外のことに関しては割と無関心」というイメージがつきものです。

この映画のオッペンハイマーもそんな側面のある人物として描かれており、科学の研究においては様々な成果を上げる一方で、それ以外のこととなると気が利かないというか、色々と迂闊だったりします。そのせいで悪気なく他人から恨みを買ってしまったり、政府から危険人物としてマークされてしまったり、といった事態も引き起こしています。

悪人というわけでは決してないのですが、正義感に溢れる善人というわけでもない。ただ自身の研究に情熱を傾ける少し不器用な男と言った感じです。ある意味これまでのノーランの映画の中で一番共感しやすい主人公だったかもしれません。

探究心の功罪

私がこの映画を見て思ったのは、正義感や野心や信念で行動する人よりも、ただただ純粋な興味や探究心で突き進んでしまう人の方が、ある意味簡単に一線を超えてしまうのかもしれない、ということでした。

映画の描写を見る限りでは、オッペンハイマーの原爆開発のモチベーションが愛国心やナチスドイツの非道に対する義憤だったようには見えません。そもそも原爆を開発するためのマンハッタン計画が発足されたのは、ナチスドイツに核兵器開発を先んじられないためでもありました。しかし1945年にはナチスドイツによる核兵器開発は行われていないという確証が得られ、さらに同年5月にはナチスドイツが降伏。当然マンハッタン計画に参加している科学者たちは「原爆開発を続けるべきか?」と話し合いを始めますが、オッペンハイマーはそんな科学者たちを「まだ日本がいる」と説得して原爆開発を続行します。(このシーンは恐らく日本人なら誰でも怒りを覚えると思います。)

その後トリニティ実験を成功させるのですが、その時の爆発の威力を目の当たりにしたオッペンハイマーは喜ぶどころか明らかに狼狽したような反応を見せます。この時ようやく自分が途方も無いものを作り上げてしまったこと、これが軍事利用されることの恐ろしさに真の意味で気づいたのだと思います。

その後はオッペンハイマーが自ら主導して作り上げてしまったものの重大さに苦悩する場面が延々と描かれ続けます。

もしオッペンハイマーが自分の国の正義を心から信じ、敵対国は滅ぼすべき悪だと心の底から信じていたのなら、恐らくあれほど苦悩することはなかったでしょう。結局、彼の原爆開発のモチベーションは「まだ誰も成し遂げていないことを成し遂げたい」という研究者としての純粋な探究心から生じていたように私には思えました。

「理論だけでは限界がある」

とは言え、実際に作ってみるまでその技術が持つ危険性を正しく認識するのはなかなか難しいのかもしれません。

オッペンハイマーの同僚の科学者であるアーネスト・ローレンスは映画の序盤からオッペンハイマーに度々「理論だけでは限界がある」と指摘します。これは理論や数式によってすべてを頭の中でシミュレートする理論主義者であるオッペンハイマーと、必要なら大掛かりな機械を自ら組み立てて実験を重ねる実験主義者のローレンスの対比でもあります。

要は「頭の中で考えているだけではだめで、実際にやってみないとわからないこともある」ということだと思います。

しかし、実際に生み出されるまでその技術の危険性が正しく認識できないのだとしたら、私たちには危険な技術の誕生を阻止する術はないような気もしてきます。

昨今でわかりやすいのはAIでしょう。将来AIにあらゆる仕事や判断を任せられるようになれば、人類はついに労働から解放されるのかもしれません。しかし、もしそうなったら人類は自らの存在価値やアイデンティティーを果たしてどこに見出すのでしょうか。もうすでにAIが人間のクリエーターの仕事を奪いつつあるという声も増え続けています。(2023年に起こったハリウッドの俳優・脚本家のストライキもAIの存在がきっかけのひとつでした)

実は私は以前開発職に就いていました。なのでプログラムやロジックを突き詰めていく楽しさも、最新技術の可能性にわくわくする気持ちも非常にわかるのです。

個人的には生成AIを開発した人たちも、別に「誰かの仕事を奪ってやろう」という悪意から開発したのではないと思います。彼らもある意味一種のクリエーターとして、「これが実現できれば素晴らしんじゃないか」という純粋な探究心で開発していたのではないでしょうか。ただその技術を人々がどのように扱うのか、すべて予測していたのかどうかは…わかりません。正直技術の探究に夢中になっている時は、その技術が世界に及ぼす影響にまで考えが及んでいないことがほとんどなんじゃないかなと思います。この映画で描かれていたオッペンハイマーのように。

世界を永遠に変えてしまうテクノロジー

原爆誕生以降も人類は様々なテクノロジーを発明してきました。そのテクノロジーを発展させてきたのは、オッペンハイマーのように未知の領域の探究に魅せられた科学者たちや技術者たちです。そして、そのテクノロジーによって今の我々の社会や生活は支えられています。

しかし果たしてテクノロジーは我々の社会や生活を、真の意味で豊かにしているのか。将来本当に危険な技術が生まれようとした時に我々にそれを止める術はあるのでしょうか。

オッペンハイマー-クリストファー・ノーランの映画制作現場-ジェイダ・ユエン

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